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2011年05月 アーカイブ

はじめまして!

今日からブログをなんとなく始めてみました。


このブログでは、私の趣味であるクルマ・・・


特に中古車についてや中古車情報などを主に書いていこうと思ってます♪


よろしくお願いします!!


さて、まずは文芸作品の中に登場する"クルマ"についてみていきましょう。


藤沢桓夫の『首』という散文詩風の短篇(大正14年、1925年)は、彼の実質的な処女作ですが、冒頭に幻想的な自動車の狂乱が描かれています。


「まるで疾風だ。


骨張った建物が・・・蒼ざめ、盛り上っては地の底に沈んでいく。


・・・活動を停止し切った都会のなか、この自動車のみが、爆発の持続に耽ってゐるのだ・・・


私はこの自動車を都会の胃袋だと感じた・・・」。


その自動車は雪の街を疾走し、遂には街路樹や電柱をなぎ倒し、さては赤いポストに衝突して停止します・・・


しかしこの車は主人公が運転しているわけではありません。

自動車、2つの顔

主人公は"乗客として"いわば"架空の"スピードの狂乱を味わっているだけです。


そしてこの種の、スピードの妖しい魅惑を扱った作品は、今日までもほとんど見ることはできないのです。


オールダース・ハクスリーが自分で車を操縦したかどうかは不明です。


しかし、"Those Barren Leaves"(25年)の中で、当時イギリスを代表するスポーツカー、ヴォクスホール30/98型を疾走させる場面が描写されています。


「スピードが高まるにつれ、ホヴンデン卿の気分は高揚してきた。


唇はひきまげられ歓喜の微笑が消えずに漂っていた。


ゴーグルのガラスのうしろの目はひどく輝いていた。


"なかなか快適だな"


彼がいった。」


さて、自動車が20世紀の人々の心を捉えたのは2つの理由からです。


一つは便利な交通手段として、そしてもう一つが、そのスポーツ性・・・


つまりスピードの魔力です。


しかしこの時代にはまだ中古車情報も少ないものでした。


風俗としての自動車

ハクスリーはすでにこの魔力を理解していたし、それなしに『素晴らしい新世界』の中の"フォードは神にとって代った"という発想は生れてこなかったでしょう。


半世紀以上前に彼は自動車がそれに代表されるテクノロジーが、人間の精神生活の代用になりうることを予見していました。


もっとも事日本に関する限り、文士たちがテクノロジーに積極的に反応した形跡はありません。


しかし、自動車は西欧の人々にとっては"最も身近な"機械でした。


裏切りの可能性を秘めながらも人間のコントロールに応えてくれる機械です。


いっぽう日本の場合、自動車の運転は、大人のなすべきことではなかったのです。


この時代に中古車情報が少ないのもうなずけますね。


夏目漱石の言う"車夫・馬丁の輩"の扱うべき下等な行為でした。


自動車は日本人の目からすると、少なくともそれが文学作品にあらわれている範囲では、一つの風俗であり、かなり役に立つ"道具"でしかなかったのです。


そしてこの姿勢は今日までも尾を引いています。


それはテクノロジー文明のシンボルでも何でもない、いわば真摯に問題にしないでよい存在でした。

自動車と中古車の歴史

日本の文士の場合、特別な場合を除いて、テクノロジーに関係したことについての無知と無理解をカバーするため、軽蔑をもって接しようとしました。


いえ文士だけでなく、一般的日本人とテクノロジーのかかわり合いの仕方が、それと同じだったのでしょう。


第二次大戦後になり、日本の自動車工業が本格的に成長しはじめても、自家用車の比率はごく低く、タクシー優勢の状態はしばらく続きます。


"純粋に自家用車として"設計されたはずのスバル360でさえ、純オーナー用は初期においては8%にすぎなかったという調査報告もあります。


中小企業向けの社用車が大部分でした。


そして多くの人々が自らの手でハンドルを握ることのできるのは、経済が異常なテンポで成長を続ける1960年代半ば以降です。


そして便利な中古車の検索システムが完成するのは、そのさらに数十年後です。


戦前と最も異なる性格は、かつて軍需と結びついていた自動車産業が、家電製品と同じ、消費経済にその活路を見出そうとしたことでした。


この中にあって、梶山季之の『黒の試走車』(昭和37年、1962年)は、しのぎをけずり合う自動車メーカーとその中の人間を描くものとして、戦前に見られないジャンルを開拓しました。

消費社会の成立

作家はようやく自動車という社会現象にも目を向けはじめました。


そして自らハンドルを握る"戦後派"作家も、しだいにその数を増してきました。


ただ確かに梶山は"自動車メーカー"を描いたのは事実ですが、自動車そのものについてはそれほどつっ込んだ理解を示していないかもしれません。


それは他の作家についても同様でしょう。


日本人の意識の中で、かつて自動車とは、トラック、バス、タクシー、自家用車ぐらいの分類で事足りました。


そして戦後の乗用車時代になっても、金持の乗る外車、ふつうの人の国産車、いかれた若者のスポーツカーと分けて考えるだけでよかったのです。


この時代になって少しずつ中古車情報も増えてきました。


車名や車格は、よほどの通でもないかぎり、どちらでもよいことでした。


しかし欧米人にとって、車名はメルセデス・ベンツにしてもロールズ・ロイスにしても、独特な歴史と性格を背負った存在でした。


また、それにふさわしい人間がふさわしい車に乗ることが、社会で暗黙のうちに了解されているのです。


巧みな車種の使い別け

日本の小説において、車名というものは特殊な"外車"を除いてどうでもよいでしょう。


歴史の重みのない日本のクルマは、極端にいえばいずれも大して違いがないからかもしれません。


このような状況のもとでは、作家は自動車そのものに過大な注意を払うことは、かえって作品に不自然さをもたらすことになります。


欧米ではそうではありません。


例えばアメリカのハードボイルド作家レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』では、冒頭に銀色のロールズ・ロイス(大金持の女の所有)が出てくるのはともかく・・・


アル中の作家はジャガー、その奥さんでひと癖ある女性は、ジョエット・ジャヴェリンというあまり名の知れないイギリス製スポーツカーに乗っています。


このクルマは当時のアメリカ上流社会にあっては、きわめてナウい存在だったことがおもしろいですね。


そして主人公の私立探偵フィリップ・マーロウのクルマは、くたびれたオールズモビールです。


これはいまだに中古車情報サイトなどで検索されるほどコアな人気を誇っている車種です。

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