スピードの美学

人間と機械の関係のあり方。


その変化の様態は20世紀を理解するうえで大きな意味をもっています。


映画という庶民のひそかな願望の中で、機械(特に中古車情報でも人気の自動車)は人間と親しく交流し、コミュニケートし、心情的にも相互理解を行います。


・・・と同時に光にともなう影のように、無惨な破壊も顔をのぞかせています。


20世紀とは人間と機械の"もたれ合い"、その愛憎関係が着実に強まっていき、機械なしに人間は生きられなくなっていく状態にまでなった時代です。


しかしそうした"機械の中の機械"というべき自動車の魅力(もしくは魔力)は、はたしてどこにあるのでしょうか。


ネオ・フロイディアンと言われるアメリカの心理学者エーリッヒ・フロムによると、現代人は生に接する態度がしだいに機械的になりつつある、と指摘します(『悪について』鈴木重吉訳)。


生を愛するバイオフィリアではなく、むしろ死を愛するネクロフィリアの傾向が強いといいます。


また創造することのできない人は破壊したいと願う、とも言っています。


彼はそれを裏書きするものとして、実は前述のマリネッティの『未来派宣言』を引用しています。


破壊の本能

ようやく坂の頂上に達しましたがそれ以上は走れません。


主人公は血走った目であたりを見回します。


トレーラーが勝ち誇ったようにその姿を現わします。


主人公はついにドアをあけ、草地の上に身を投げ出します。


トレーラーは中古車情報でも人気のあるセダンに激突、炎上します。


トレーラーの運転手は何とか両車を切り離そうとしますが、2台はもつれ合って谷底に転落、大爆発が起るのです。


破壊のシーンを目のあたりにした視聴者は、例の"代償的満足"なるものを味わうわけですが、カー映画の本道はチェイスから破壊へと通じているのかもしれません。


破壊本能という言葉は簡単に口にされます。


・・・しかし20世紀の暴力と破壊への嗜好は、もっと根深いものがあります。


徹底した破壊以外の何物でもなかった2つの大戦の記憶が、あるいはその下敷きにあるのでしょうか。

「激突!」の不気味さ

「ET」(1982年)などで知られるスティーヴン・スピルバーグ監督のいわば出世作が、前にも触れた「激突!」でしたが・・・


それに続く劇場用映画の第一作「続・激突!カー・ジャック」(73年)は、ある若夫婦に警官ごと乗っとられたパトカーを何と250台のパトカーが追っかけるという壮絶なカー・チェイス映画でした。


スピルバーグは、チェイスにも破壊(中古車などのクルマ壊し)にかけても巧みな腕を見せる映画づくりをしました。


「激突!」では、何の気なしに追い越したトレーラー・タンクローリーが、突如猛スピードをあげて主人公の乗るプリムス・ヴァリアント(セダン)を追いかけてきます。


その男はこのときから絶え間ない恐怖のとりことなります。


いくら逃げてもだめ・・・


トレーラーの運転手は決して姿を見せないのです。


トレーラーは、無気味な悪意の化身となります。


登り坂が見えてきた・・・ここでプリムスは差を開けるはずだ・・・


主人公は思い切ってアクセルをふかします。


トレーラーを振り切ったか甚見えたとき、エンジンルームから白煙が噴き上がりました。


オーバーヒート。


スピードは徐々に失われていきます。

破壊は消費社会の重要な要素

トヨタの野心作、トヨタ2000GTのコンバーチブル(市販されず)も"ボンド・カー"に使われました。


九州の小島にロケしたことで話題となった「007はニ度死ぬ」(67年)です。


日本の自動車工業が、ようやく一人前になったことを示すエピソードといってよいでしょう。


消費社会とは言うまでもなく、規格化された商品を量産し、市場で大量販売を行うことです。


中古車情報検索システムの開発などもこれに大きく関わってきます。


しかしそこにはもう一つの要素が必要となります。


"計画的に"旧式化され、また破壊された商品の廃棄処分です。


消費社会は、いわば機能的なゴミ処分場なしには成立しない、といってもよいでしょう。


破壊はこの20世紀社会の現実的また心情的な因子の一つです。


そのことは映画にも反映しています。

ジェームズ・ボンドとアストン・マーチン

映画の中に出てくる自動車は、それぞれの場に応じた車格、雰囲気をもった銘柄でなくてはなりません。


視覚的要素が強いだけに、小説以上にその点に気をつかうものらしいですね。


ジェームズ・ボンドの007は、小説では戦前の名門スポーツカー、ベントレー4.5リットル(スーパーチャージャーつき)に乗ることになっていましたが・・・


映画の中では中古車情報でも人気の高いロータス・エスプリからシトロエン2CVまでさまざまな車に乗っています。


しかし最もきまったのはアストン・マーチンでした。


アストン・マーチン社にその使用を申し入れたところ、ヴィクター・ゴーントレット会長(当時)は一もニもなく承知し、自分の乗っていたヴァンテージ・ヴォランテを提供しました。


同社のスポークスマンのジョフリー・コートニーは言っています。


「ジェームズ・ボンドがアストン・マーチンを運転したからといって車が売れるわけでもない。


だがDB5が、"Gold finger"(65年)で使われたことで、アストン・マーチンの名前は市場にはっきり刻み込まれた。


それはPRとして大成功だった」。

架空の世界の中の自動車

ジャン・コクトーの「オルフェ」(1950年)では、黒塗りのロールズ・ロイスは冥界との通信を可能にする手段でした。


ウォルト・ディズニーの「うっかり教授」(61年)や、「チキチキバンバン」(68年)では、自動車は空を飛び、水を渡り、主人公の危難を救ってくれます。


映画という空想の世界で、自動車は擬人化され、さらに機械としての理想である知性さえもっています。


自動車は、すくなくとも映画の中では一足早く、"インテリジェンス"でした。


・・・しかし自動車が人を愛し、自由意志で行動をはじめるとなると事はおだやかでありません。


けれども同じくディズニーの、「ラブ・バッグ」(69年)ではそれが実現しました。


そしてその主人公の自動車がVWビートルであることで、アメリカ人なら誰でも納得します。


フォードやシボレーでは、こうはいかなかったでしょう。


中古車情報でも人気の高いVWビートルは、自動車が日常生活の道具となりきった戦後のアメリカ人にとってさえ、独得で親密な心情的価値をもっていました。


チェイスこそ映画の真髄


「北北西に針路を取れ」(1959年)など、追っかけもので名を知られるアルフレッド・ヒッチコックは言っています。


「私にはチェイスこそ映画という媒体の最終的な表現のように思える」。


・・・もっともそれとは裏腹に、チェイスの全くない「裏窓」(59年)も彼の作です。


映画の中で自動車にはさまざまな意味づけがなされました。


男性の力強さ、暴力を表現するもの・・・


さらには人間に敵意をもつものとして(スティーヴン・スピルバーグ監督のTV映画、「激突!」、72年)、さらには「怒りのぶどう」(40年)のように、経済的苦境からの脱出手段として使われることもありました。


故障ばかりしている1925年製ダッジのトラックで西へ西へと進むジョード一家がふと目にした、ハイウェイを疾走する"流線形のヒット商品"リンカーン・ゼファーの姿は、"持つ者と持たざるもの"の対比を鮮明に浮彫りにしています。


まだ中古車検索システムがなかった時代ですが、自動車はこのころ、20世紀社会の(良きにつけ悪しきにつけて)欠かせない隣人になったことをうかがわせています。


映画は平均的市民の心理と感情(そしてときにはモラル)の平均値を表現するものとも言われています。


しかし時としてそれは架空の世界にも深く足を踏み入れます。

映画と自動車

アメリカ、イギリスのエンタテインメント小説は、このように巧みにクルマの性格による使い分けがなされています。


いくら中古車情報サイトなどで人気があるとしても・・・


ジェームズ・ボンドの007がミニに乗ったのでは格好がつきませんよね。


映画においてもクルマの選択は、配役の性格づくりに重要な役割をはたしています。


日本にもクルマに大きなこだわりを示す大藪春彦のような作家もいますが、これは例の、「原則を証明する例外」でしかないのです。


20世紀を特徴づけるものとして、自動車のほかに映画があります。


ほぼ同時期2895年、リュミエール兄弟、フランス)に生れたこの2つはきわめて"相性"がよいでしょう。


ともに"動くもの"だからかもしれません。


映画のごく初期から自動車は大切な小道具でした。


ハロルド・ロイド、バスター・キートンといった喜劇役者と自動車とは切っても切れない縁があり、彼らはひたすらクルマで走りまくりました。


カー・チェイスは、はじめから映画の重要なテーマでした。


巧みな車種の使い別け

日本の小説において、車名というものは特殊な"外車"を除いてどうでもよいでしょう。


歴史の重みのない日本のクルマは、極端にいえばいずれも大して違いがないからかもしれません。


このような状況のもとでは、作家は自動車そのものに過大な注意を払うことは、かえって作品に不自然さをもたらすことになります。


欧米ではそうではありません。


例えばアメリカのハードボイルド作家レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』では、冒頭に銀色のロールズ・ロイス(大金持の女の所有)が出てくるのはともかく・・・


アル中の作家はジャガー、その奥さんでひと癖ある女性は、ジョエット・ジャヴェリンというあまり名の知れないイギリス製スポーツカーに乗っています。


このクルマは当時のアメリカ上流社会にあっては、きわめてナウい存在だったことがおもしろいですね。


そして主人公の私立探偵フィリップ・マーロウのクルマは、くたびれたオールズモビールです。


これはいまだに中古車情報サイトなどで検索されるほどコアな人気を誇っている車種です。

消費社会の成立

作家はようやく自動車という社会現象にも目を向けはじめました。


そして自らハンドルを握る"戦後派"作家も、しだいにその数を増してきました。


ただ確かに梶山は"自動車メーカー"を描いたのは事実ですが、自動車そのものについてはそれほどつっ込んだ理解を示していないかもしれません。


それは他の作家についても同様でしょう。


日本人の意識の中で、かつて自動車とは、トラック、バス、タクシー、自家用車ぐらいの分類で事足りました。


そして戦後の乗用車時代になっても、金持の乗る外車、ふつうの人の国産車、いかれた若者のスポーツカーと分けて考えるだけでよかったのです。


この時代になって少しずつ中古車情報も増えてきました。


車名や車格は、よほどの通でもないかぎり、どちらでもよいことでした。


しかし欧米人にとって、車名はメルセデス・ベンツにしてもロールズ・ロイスにしても、独特な歴史と性格を背負った存在でした。


また、それにふさわしい人間がふさわしい車に乗ることが、社会で暗黙のうちに了解されているのです。